映画『タクシードライバー』の描く大都会に潜む孤独

taxi driver

みなさんこんにちは!

今回は不朽の名作と呼ばれる映画『タクシードライバー』について、筆者の主観を交えつつお話しできればと思います。

この記事ではどうしても映画の内容に触れるので、まだ「タクシードライバー」を観ていない方は、先に映画を観てからこの記事を読むことをオススメします。

映画だけに満足しないで、ちゃんとこのサイトに戻ってきてくださいね。

目次

1 . 映画「タクシードライバー」の概要

公開:1976年

監督:マーティン・スコセッシ

主演:ロバート・デ・ニーロ

あらすじ:

1970年代、ベトナム戦争帰りの青年トラヴィス・ビックルは深夜帯のタクシー運転手としてニューヨークの街を走っていた。

売春婦やゴロツキに溢れたこの街を憂い、いつか来るはずの終わりを待ち侘びながら街をタクシーで流していると、12歳半の売春婦アイリスがポン引きの手を振り解きながら乗り込んでくる。

そこでアイリスはトラヴィスに助けを求めるも、男に強引に連れ去られてしまった。

その一部始終を見た彼が思いついたある計画とは…?

2 . 映画「タクシードライバー」のテーマ

ここからは盛大なネタバレを含みます!!

私はこの映画を観て、こんな印象が残りました。

「都市の喧騒に取り残された孤独な青年の歪んだ正義の膨張と破裂」

まず、主人公のトラヴィスにはそれなりの道徳心が根付いています。

「こう生きるべきだ」「こうあるべきだ」

それ自体に歪みは一切なく、至って普通の「善」です。

簡単に言ってしまえば「ピュア」とも言えるでしょう。

そんなピュアな彼には、欲に塗れた夜のニューヨークが「道徳的にも荒廃した街」に映りました。

やがて、トラヴィスはそこにいる人間に憤りを感じ、この街の「清掃」つまりは、堕落した人間の排除を夢にまで見るようになります。

これは、彼の持つ「善」の概念それ自体には比較的歪みはないのですが「善」を過剰に信じていることが彼自身の歪みをもたらしているということになります。

しかし、だからと言って彼が独りでいたかったかというとそうでもありません。

彼が望んでいたのは「互いに分かり合える意味のある人間関係」です。

その一例として、荒廃した街の中で見つけた一際輝く女性べツィーの存在が挙げられます。

彼はある日の日中、人間の穢らわしい欲や不誠実が溢れたセピア色の街並みの中では浮いてしまう女性べツィーを見つけ、シンパシーを感じるのです。

彼女の気高さや気品は、夜中のタクシーの車窓ではまず見ることのできない、美しいものに映ったのでしょう。

だからこそ、彼はこの街に馴染むことのない彼女に自分と同じ「孤独」を見出し、共感するのです。

しかし彼は、幾度かのデートを重ねた末に彼の趣味(ポルノ映画鑑賞)が原因で、そのべツィーに振られてしまいます。

同じ「孤独」であったはずの彼女からの否定は、彼の心の中にとてつもなく大きな傷を作ってしまいます。

これによって、彼の中で孤独が急激に加速しまうのです。

どこかにいるはずだった「同じ境遇で通じ合える人間」に否定された彼は、本当に自分が孤独であることを知ります。

そうなれば、彼の考えを否定するものはもうありません。

否定された自分の存在価値を失わないようにと、周りの人間をより否定し、自らを過剰に肯定するようになります。

自分以外の誰もいない空間で自らの正義を正当化し続け、やがて少しの歪みを含みながら膨張し、大きくいびつな形に仕上がっていくのです。

そうした矢先に出会うのが、彼に助けを求めてきた12歳半の売春婦アイリスです。

トラヴィスは彼女を助けることこそが彼自身の使命だと、そう信じて止まなくなります。

結局、彼は売春を斡旋する穢らわしい大人どもを殺すことで「英雄」となる皮肉めいたラストを迎えるのです。

3 . 現代社会に見る『タクシードライバー』現象

1970年代のアメリカで共感を得たこの作品ですが、今にも全く通ずる内容だと思いました。

これは2019年に映画『ジョーカー』が大きな反響を呼んだことからも言えることだと思いますね。

『タクシードライバー』『ジョーカー』はすごい似てますね。

孤独な人間が孤独が故に拗れていく姿は、全く見るに耐えません。他人事には思えないから(苦笑)

実際私も大の都会嫌いですし、欲に溺れた人間を見ては「こいつらを洗い流す雨はいつ降るんだろうか」なんて一言一句同じことを考えていた時なんかもあります(笑)

都会に出ると凄く孤独を感じる方、少なくはないんじゃないでしょうか?

都会って何不自由なく個人でも生きていけるじゃないですか。

オフィスで個々に与えられた仕事さえこなせば金はもらえるし、誰かに作ってもらわなくたって、その金でコンビニ飯は買えるし…。

でも、それの繰り返しなんですよね。

ただ目標もなく「生きる」ことを続けていれば、今日を生きるのに精一杯になるのも仕方がありませんよ。

そりゃ周りのことも見えなくなってくるだろうし、道徳的な行いとかとにかくどうでもいいから、今日は乗り越えたい…みたいな。

気持ちはわかるんですけど、みんながみんなそれに耐えてるオフィス街とか、満員電車とかに乗ってると、やっぱり異常だなって思ってしまうんです。

だから私には、自分だけで精一杯に生きている現代の人々を分かりやすく大袈裟に表象したのが、ニューヨーク街のゴロツキや売春婦だったとすら思えてしまいました。

こんなことの連続で世の中から思いやりが消えていくのなら、文明なんて滅んでしまえばいいのになぁ…を本当に行動に移してしまったのがトラヴィスだったってだけの話で。

そんなこんなで、トラヴィスの気持ちに共感できてしまう私は、冒頭からこの映画にのめりこんでしまいました。

しかし一番この映画でモヤモヤする点があります。

それはこの都会の孤独ばっかりは描かれた所で、共感以外に何も残らないというところです…。

実際、映画のあの状況でトラヴィスの暴走を止める術はあったでしょうか?

孤独な自分に寄り添うのは、孤独な自分以外ありません。

世間が良しとしてきた道徳感を基に積み上げる正義なんですから、誤った方向に進んでいようが、彼自身は正しいと信じて止みません。

彼と同じ境遇に立って、どうして同じことをしないと言い切れるんでしょうか…。

さて、考えすぎてしまう前に田舎に仙人修行でも積みに行きましょうかね。

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